洋野町のストーンサークル
西平内I遺跡(にしひらないいちいせき)は洋野町種市にある縄文時代の遺跡です。この遺跡からさまざまな石を地面に円形に並べた環状列石(ストーンサークル)が発見されました。同じ環状列石である秋田県鹿角市にある大湯環状列石は、「北海道・北東北の縄文遺跡群」のひとつとして、2021年7月にユネスコ世界文化遺産に登録されています。 歴史的にも価値がある遺跡が2004年洋野町でも発見されました。4000年前のこの場所にはどのような景色が広がっていたのでしょうか。今回は太平洋側で初めて発見された環状列石である西平内I遺跡に焦点を当ててご紹介します。
1万年以上続いた縄文時代
「縄文時代」と聞くと、歴史の授業で習ったことを思い出す人も多いかもしれません。縄文時代は約1万年続いた時代で、その間に作られる土器の形や色などに変化がありました。使われていた土器の特徴などから、草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6つの時代に分けられます。今回ご紹介する西平内I遺跡は約4000年前のものなので、縄文時代後期に作られたことになります。
縄文時代に入ると気候は温暖になりました。それまで人々は移動しながら生活していましたが、縄文時代は場所を決めて住むようになりました。縄文時代の遺跡からは、竪穴住居や太い柱を使った建物、人が集まる広場、亡くなった人を埋葬するお墓、貝がらや食料の食べかすを捨てる貝塚などが全国で発見されています。
西平内I遺跡とは
西平内I遺跡は、太平洋岸から西へ1.9km、青森県境から南東に1.3kmの段丘上に位置しており、標高は61.4mから63.2mとなっています。2004年に旧種市町教育委員会により発見され、2014年と2015年の三陸沿岸道路事業に伴い、公益財団法人岩手県文化振興事業団埋蔵文化センターにより一部の発掘調査が行われました。調査より、集石遺構が62基、弧状の石列が1基、竪穴住居5棟、掘立柱建物5棟と、縄文土器、鐸形土製品や土偶などの土製品、石棒やヒスイを使った石製品も出土品として発見されました。洋野町教育委員会の発掘調査は、トレンチ発掘調査(溝を掘り調査する方法)で行い、5m四方・深さ1mの穴を掘り下げ、土器や石器を発掘したり掘立柱建物の柱の穴の痕跡を見つけました。住居の柱の穴の痕跡は黒いシミのようになっています。調査範囲内の柱の位置関係から、掘立柱建物の大きさなどを推測することができます。また、細長く黒くシミになっているところは動物を獲るための落とし穴と考えられています。
冒頭でも紹介したように、西平内I遺跡では環状列石が発見されました。初回の発掘調査で発見された弧状の石列が調査区外にも続くと考えられ、町教育委員会が2016年と2019年に調査を行った結果、長径が30m、短径が26mの環状列石であることが確認されました。
環状列石は、縄文時代中期に関東・中部地方で作られたのがはじまりとされていますが、縄文時代後期からは主に北海道と北東北で見つかっています。石の並べ方や組み方は場所ごとに異なります。
大湯環状列石(秋田県鹿角市)では石組の下から土坑墓と思われる穴が見つかっていたり、小牧野遺跡(青森県青森市)の環状列石でも土製品や石製品などが多く出土していることから、環状列石はお墓や儀式を行うための場所だと考えられています。
西平内I遺跡からは集石遺構(石が集合した状態のもの)が70基以上発見されました。他に例のない数を誇ることから、とても重要な遺跡になるかもしれません。
洋野町教育委員会の千田氏によると、尖った石は川や沢の石で、丸い石は海の石だそうです。周辺の河川から石を運んできたのでしょう。部分的に赤くなっている石は熱を受けたもの、光沢のある石は人が磨いた痕跡のようです。
これまで見つかっている環状列石は日本海側や内陸でのみ発見され、太平洋側で発見されたのはこの西平内I遺跡が初めてでした。環状列石は太平洋側にはない文化であるという見解もありましたが、そうではないことが明らかになりました。離れた場所で同じ形状の遺跡があるということは、何かしらの方法で遺跡の作り方がこの土地まで伝わったと考えられます。縄文時代の人の動きや文化の広がりが感じられ、非常に興味深いものになっています。
また、環状列石が作られる場所は、周辺の山や日の出・日の入りの方向などと強い関係があったという説があります。西平内I遺跡では、環状列石から角状に延びる4mの列石は階上岳山頂に向いています。
三陸沿岸道路事業により、洋野町では西平内I遺跡の他にも縄文時代の遺跡が発見されています。遺跡や出土品から、遥か遠い昔からこの場所に人が暮らしていたことを教えてくれます。
取材協力
洋野町教育委員会 種市民俗資料館 千田政博(ちだ まさひろ)氏
(2021/10/24 現地取材 千葉桃子 写真 大原圭太郎)