木工ろくろの響く里
工芸体験工房や宿泊施設、産直施設など体験観光の場として町内外から多くの人が訪れるおおのキャンパス。その一画にある大野産業デザインセンターでは、大野木工の職人たちの作った器をいつでも買うことができます。職人と共に大野木工という工芸を根付かせ、その価値観を広めることに尽力した中家さんは、ここの元所長です。
中家さんは洋野町大野(旧大野村)生まれで、隣町の久慈市の高校を卒業した後は地元の大野村役場(2006年に合併し現在は洋野町役場大野庁舎)に勤めていました。その当時、地元の学校給食に大野木工の食器を導入する転換点にも立ち会っていた中家さん。
そんな中家さんが大野木工の運営に携わったのは、1986年からのことです。間に教育委員会へ異動になったりということもありながら、2015年より4年間、大野産業デザインセンターの所長を務めました。今回は中家さんにお話を伺いながら、大野木工、及びおおのキャンパスの成り立ちについて、一人の先生との出会いの物語にフォーカスを当て紐解いていきます。
大野木工の始まり
当時は海側からくるヤマセ(冷たい風)の影響もあり冷害で作物が十分に採れなかったため、1800世帯のうち、1200人が出稼ぎに行くという何とも生産性のなかったこの大野村。どうにか仕事を生み出し収入を得、ここで働き暮らすことは出来ないものかと県の依頼を受けて来たのが、東北工業大学教授であり工業デザイナーでもある秋岡芳夫先生でした。
秋岡先生がまず初めに説いたのは衣食住の工夫。自分たちの衣食住をグレードアップし他所の人にもそれを教えていけたら、この地でも十分生活出来るのではないか、秋岡先生の口から出たのはそのような提案でした。これが後の「一人一芸の里」構想の基盤ともなります。
村の人たちからの理解を得るため、初めは村の商工会議所が中心となって、秋岡先生の著書を配ることでこのような考えを普及させるよう試みました。しかし村民たちは、秋岡先生が村に導入しようと試みていた “工芸” に対して及び腰だったのでした。
そこで秋岡先生率いるチームは村民に具体的なビジョンを示すため、当時建設中だった村の体育館のオープンに合わせるような形で「冬の移動大学(大野村キャンパス’80)」を開校しました。その内容は、村に一流の講師たちを招き、人々に国内の様々な工芸に触れてもらおうというものです。漆器や木工ろくろにホームスパン、講師たちによる実演を通して触れることが出来た工芸の数々に、村の人たちは胸を躍らせたことでしょう。
その後も春夏秋冬の年4回のペースで開校され、そこはものづくりについて教え説く場として浸透していきました。この取り組みの中で木工に関心を持ち手を挙げた者が7人。彼らがグループを結成し研修に励んだことが、今の大野木工の原型となります。
工業デザイナー「秋岡芳夫」
大野木工、及びおおのキャンパスの歴史を辿る上で欠かすことの出来ないキーパーソンが、上記でも登場した秋岡芳夫先生です。
『工房を作り、自分たちの生活の中で食器を作る、そのような「暮らし方」も含めて外との交流を図っていく』
『 “商品” を作るためのものづくりではなく、あくまでも “使う人を意識した” 上質なものづくりを』
これが秋岡先生の考えでした。
中家さん:「秋岡先生は人と喋る方ではなく、呼ばれて講演に出向いた際も一人で竹とんぼを削って出番を待つような静かな人でしたね」
ものづくりは幼いころから得意だったようで、秋岡先生は、自身が小さい頃にもらった小刀を自分で研いでは使い、研いでは使い、すっかり削れて短くなってしまっても生涯愛用し続けたそうです。
秋岡先生の専門は工業デザイン。戦争から戻ってきてからはずっとデザインの仕事をしていたそう。「アメリカ軍の住宅から鉛筆、今のバイクの原型まで、時代を反映する様々なものをデザインしていく中で、子どもの絵本や教科書にまで関心を向けていた」と中家さんはいいます。その中で秋岡先生は「幼児向けの組み立て式の付録付き教材のように、みんなが同じものを作ってそれを使わせるのではなく、一人ひとりの個性にあったものを提供したい」「大人はもちろん、子どもたちにも『つくる』ということをきちんと覚えてもらいたい」という想いが強まっていきます。大野村の「一人一芸の里」構想の中にもこの想いは込められているのでしょう。子どもたちにものづくりのことを伝え歩く団体、“大野木工生産グループ”が今はその役割の一つを担っています。
大野木工生産グループ
秋岡先生の意志をしかと受け止め語り継ぐ中家さんは、大野木工生産グループのメンバーの一人です。大野木工生産グループとは、作り手と役場を退いた人たちが結成した団体。現職の役場の方のサポートも得ながら、町のお母さんや大学生も参加する絵本の読み聞かせグループと共に活動しています。
現在、全国の私立保育所250ヶ所で使ってもらっている大野木工ですが、そこを訪ねて回り、木工食器の割れや塗装剥がれ等のチェック、そして実際の使い勝手を伺う等の活動をしています。時には実際に電動ろくろを持って赴き、子どもたちに「今使っているお皿はこうやって作られているんだよ」と実演して見せたり、器作りの材料となる木についても、ドングリの状態から数十年かけて成木になり、そこから器を生み出すのだということを丁寧に教えています。
中家さん:「器の裏には作り手のマークが入っていて、『あなたが使っている器って、この人が作った器なんだよ』と教えます。そこを一致させると子どもたちは、毎日使っている食器が単なる器ではなくて、『あの人が作ってくれた器なんだ』という想いを持って使ってくれるんですね。そうするとやっぱり、今まで何とも思わなかった器が身近に感じられる。そういう活動が、この13年間の成果としてはすごくあったかなぁと思います」
現在保育所の多くは法人化しており、一団体が3~4つの保育所を抱えているため、1ヶ所がそれを導入すると他も導入して……と少しずつ広がっていくので、販路拡大の側面での成果も得られているようです。
卸業者などを介さず、生産者自らが販売・流通に取り組む6次産業。この言葉が出始めたのは約10年前(2010年あたり)のことになりますが、大野木工生産グループはそれ以前からこれと似た取り組みを行なっていたことになります。
中家さん:「私たちの活動は13年前に始まります。そういう6次産業って言葉は私たちが動き出した後から出てきましたけど、今思い返してみると、ずっと前からやっていたってことですね。実際に作っている人が来ることで感じ取れるものは、3~4歳の年齢でもすごくあるんです。なるべく自分も子どもたちの目線になって問いかけます」
秋岡先生の教えを伝えていく
中家さん:「おおのキャンパスのことや土地の経過など当時のことを知る人がだんだんいなくなっていく中で、この大野に入ってきた工芸っていうのがどういう意図で、今の時代にはどういう位置付けにあって、自分たちはそれをどう進めていけば良いかというところを今一度勉強し直さないと、やっぱり先が見えない部分もあるのではないかなと。私ももう退職して10年になりますけど、ここにいる人たちへも含めて、伝えられる部分は伝えていくのが私の役割かなぁと思いますね」
秋岡先生を始めとする大野木工の先輩たちが一人、また一人と亡くなっていく現状。「私もその一人になりつつある」と話す中家さん。
中家さん:「私も生きている間に、秋岡先生の想いを受け継いで何かを起こせたらいいなと思っています。幸い、まだ健在のメンバーもいますのでその人たちと連携しながら、次のステップへちょっとでも何か仕掛けられれば良いなと希望を持っています」
『器は単にモノではなく、そこに心が入ってこその器になっていく』
中家さんは、秋岡先生の一番根底にあるこの考えがすごく大事だと話します。
中家さん:「出会いから40年過ぎて秋岡先生も亡くなってしまいましたが、この考えは今も光り輝いていると思うんです。今ではお皿も100円で買える時代ですし、1つ2000~3000円の木の器なんてもしかしたら受け入れられるものではないのかもしれないけれど、でも、大量消費の傾向にあるこの時代だからこそ必要とされる考えなのではないかとも思います。この考えはこの先いつまでも強調していかなくてはならないと思いますね」
「自分たちがしてもらったことに限りなく近いものを、あの時教わったことを糧にしながら今後もやっていかなくては」中家さんは静かに、熱く語ります。その声色に、中家さんのある種の使命感のようなものをうかがい知ることが出来ました。
ものづくりに対する想いと共に、大野木工の技術は職人たちに受け継がれていきます。そんな想いの込もった木の器。その職人たちの作る木の器を、実際に手に取って自分に合うものを選ぶことの出来るおおのキャンパス。
ここは、かつて大野村の人々が瞳を輝かせた「冬の移動大学」のように、木工体験のみならず様々な工芸を体験することも出来ます。40年前は何も無かったこの地ですが、今ではろくろの音が響き木の香りが漂う場所となりました。
洋野のものづくりに触れに、ぜひ一度訪れてみてはいかがでしょうか。
中家 正一(なかいえ しょういち)
1951年生まれ。洋野町大野出身。
高校卒業後、大野村役場(現:洋野町役場)勤務。
1986年に大野木工の運営に携わるようになり、
2015年に役場の部署の一つとして置かれた大野産業デザインセンターに配属、
所長に任命される。
今は定年退職しているが大野木工のための活動は継続中。
おおのキャンパスで現役当時よく食べていたお気に入りのメニューは温かい鴨そば。
おおのキャンパスHP:https://ohnocampus.jp
※大野木工の歴史についてもっと詳しく知りたい方は下記をご参照ください。
広報ひろの 2010年12月号
http://www.town.hirono.iwate.jp/docs/2013012800078/
(2021/02/24 取材 上野珠実)