ひろのの栞

漁業をもっとおもしろいものに(前編)

洋野町種市では昔から漁業がさかんに行われています。今回は、種市の八木地区で漁師をしている蔵勝利さんにお話を伺いました。漁師の家系に生まれ、自らも漁師となりさまざまな困難を乗り越えながら歩んできたこれまでの道はどのようなものだったのか。そして、これからの漁業、地域をどのように考えているのでしょうか。(写真提供:芥川仁氏)

漁師という仕事

漁師の家系、5人兄弟の末っ子として生まれた蔵さん。お父さんやお兄さんたちは地元で漁師をしていましたが、蔵さんは高校卒業後、遠洋漁業の会社に就職します。当時、ロシアやカナダ、ノルウェーでサケやマスの漁をする遠洋漁業は稼ぎも多く、漁師の間では花形の職業でした。5月の連休明けに漁に出て、お盆あたりに帰ってくる、そしてまた長期の漁に行く、という生活をしていました。しかし、1977年の国際海洋法条約により排他的経済水域が定められ、海外での漁ができなくなってしまいました。

いずれは自分も地元で漁をするんだという覚悟を持っていたので、21歳で地元である八木で漁師を始めることに。漁師の家系であり、親戚にも漁師が多かったので漁師以外の仕事は考えていませんでしたが、こう言われたことも。

蔵さん:「漁師って『船方』とも呼ばれていて。馬を引っ張って歩く人たちは『馬方』って言うでしょ。船方と馬方にはいつでもなれるから違う仕事をしなよ、と言われました。つまり、漁師って最低の仕事だよということで」

今までとは全く異なる環境になり、最初は何もわからない状態でした。先輩の漁師を見よう見まねで仕事を覚える日々が続きました。当時はそれがとても大変でしたが、今となってはたくさんのことを学べたいい経験だった、と振り返りました。また、蔵さんと同じような経緯で地元に戻ってきた人も多く、船の数が増えたのもこの頃でした。
地元で漁を始めた当時から現在まで、タラを中心にタコやコウナゴの漁を行っています。

写真提供:芥川仁氏

震災、そこからの歩み

2011年3月に起きた東日本大震災で八木地区は洋野町で1番大きな被害を受けました。震災時、蔵さんはまず漁船を沖に逃し、洋上待機するように指示。自宅が海から離れた場所にあったので、津波の被害はまぬがれました。落ち着いてから漁港に向かうと、漁港は壊滅状態でほとんどの船が流されていました。洋上待機している漁船が戻るのも厳しい状況だったため、蔵さんは残った船で乗組員たちへの支援に向かいます。薬や着替えや食料、燃料を持ち、1つ1つの船に届けました。

蔵さん:「自分が先に逃げるわけにはいかなかったからね。まずはみんなを逃がしてからでないとね。港もぐちゃぐちゃで船が戻ってこられないから洋上待機させるしかなくて。3月で寒かったし。いろいろな場所から物資を集めて届けて回りました。自分のことはそっちのけで。なんか疲れたなあと思ったら4日くらい寝てなかった。でも、洋野町では幸い亡くなった人もいなかったから」

2011年3月12日の八木南港周辺、写真提供:洋野町企画課広聴広報係

それから2年はがれきの撤去や漁港の整備に取り組むことになり、漁船を手に入れてすぐに漁を再開できるような状況ではありませんでした。船が流されただけでなく、八木にある町営の魚市場も大きな被害があったため、蔵さんは「もうここで漁を再開できない」と感じることもあったそうです。そんな中でも「自分も何かしないと」という気持ちがあった蔵さん。

蔵さん:「津波で市場がやられてしまって。町営の八木の市場で震災から1週間後にブルーシート敷いて青空市で魚を売ったの。残った漁船は魚を獲ることができるわけだから。売れるか売れないかやってみろ、って漁師たちに言ったのよ。青空市でなくても、どんな方法でもいいから獲ってきた魚売るんだっていう信念だけは曲げるなって伝えて」

漁業に携わる人など、海岸沿いに住んでいる人は海のものを食べたがるのでそういう人たちに売れるんじゃないかと予想して青空市を開催したところ、予想通り地元の人が魚を買っていったそうです。漁師の「売りたい」という思い、地元の人たちの「買いたい」という思いがあることを知り、動かないと誰もみてくれないと感じた蔵さんは、町だけでなく県の職員にも「仮設でもいいから屋根がある市場を作ってほしい」と頼みました。青空市を5回開催したときには仮設の魚市場が完成し、販売を再開することができました。

損壊した町営八木魚市場、写真提供:洋野町企画課広聴広報係

ブルーシートを敷いて魚を販売する様子、写真提供:洋野町企画課広聴広報係

しかし、震災を機に漁業を離れた漁師も多くいました。船や倉庫が津波で流され、また一から始めるにも多額の費用がかかります。蔵さんも船と倉庫をなくし、漁師を辞めようかと考えますが、まだ引退する年ではなかったこともあり迷っていました。すると、会社員だった息子さんが会社をやめて漁師になることを決心します。そこで「中途半端ではいけない」と思い始めたそうです。

蔵さん:「震災後、漁師を思いっきりやる人が出てこなかったの。ただ、ひとつの起爆剤に自分たちがなれればいいなと思って。息子の他にも同世代の人が漁師をしているけど、その人たちもいずれは夢を持ってね……漁業を覚えて、いろいろ経験して、『自分で船を持ちたい』という希望を持って働いてほしいな、と思って」

そう決まれば、まずは船を探し始めました。国や県から再び船を用意する漁業者に向けて補助金が出されましたが、期限は1年。震災の影響で東北沿岸部は壊滅状態で、船も造船所もありません。船を新たに作っていたら補助金の申請に間に合わないので、できている船を見つけるしかありませんでした。九州や広島、北海道の日本海側に向かうも、蔵さんが理想とする船は見つかりません。そんなあるとき「宗谷岬にいい船がある」と教えてもらい、人づてに船主さんと話したところ、実際に船を見てほしいと言われました。

蔵さん:「北海道の日本海側から宗谷までは行くって言っても1日かかる所だから。事前に船の写真とか、いろいろな資料を宗谷の漁協の人に送ってもらって。とにかく行って実物を見てみないとと思って。前の船と大きさとかは全然違ったんだけど、今まで通りの仕事ができそうだなと判断して譲ってもらいました」

その後、根室の造船所に造船をお願いし、4ヶ月根室で暮らしながら船の完成を見守りました。

蔵さん:「1日でも早く船を完成させたかったから、根室にアパートを借りて造船所に毎日つきっきりで。そこの造船所の人が気仙沼で造船をしていた人だったから、『被災して大変だったよね、1日でも早く漁やりたいよね』って言ってくれて、いろいろ世話になって。アパートも無償で住ませてもらって。そこまで世話になってやってもらったから、なんとか恩返しできるような結果を残したいなと思って」

宗谷の漁協の方、船主さん、造船所の方とは今でも連絡を取り合っているそうです。

写真提供:芥川仁氏

そして、震災から2年後に蔵さんは漁を再開することができました。船の竣工式には多くの人が訪れ、いいスタートを切ることができました。一方で、原発による放射能の問題もあり魚の値段が低迷し、なかなか売れないことに悩まされます。震災前に魚を輸出していた外国からも「東北の魚は危険」とレッテルを貼られてしまいました。しかし、ここで諦めるのではなく、これからも漁を継続するために少しずつ時間をかけて販路先を拡大しようと蔵さんは心に決めていました。

 

>>後編へつづく