ひろのの栞

【寄稿】このまゝでは何も無くなってしまう 捨て去るものを拾い集めて

ひろのの栞から発行した「ゆい」と「つぎ」、そして、2冊のコンセプトを引き継ぎながら開催した企画展「風土-あしもとの風景をつなぐ展-」。この二つの企画展の監修協力をしてくださった一人である東大野さん。今回は、彼が青年時代より捨て去られるもの、あるいはこのあたりの言葉では「ナゲモノ」を拾い集め、大切に保管してきた理由に迫るため、東大野さんご本人からご寄稿いただきました。

昭和四十年代、戦後すべてのものが不足した頃から少しずつ回復の兆しがみえ始め、昭和四十二年には、県の食糧不足解消の為「産米五十萬噸達成運動」が始まり、しかし数年後四十六年に「滅反政策」がスタート。そんな当時のこと。昭和三十年代に中学を卒業、戦後の物資不足も回復傾向となり、多くの仲間は手っ取り早く収入の得られる出稼ぎに行き、高校進学は数える程度。世は高度経済成長期とかで、中学の後輩たちは今では死語とも思える「金の玉子」ともてはやされ「集団就職列車」で旅立った。この年代には懐かしい井沢八郎の流行歌「あゝ上野駅」である。

そうした中、自給自足に近い農村の跡継ぎの立場にある者は地元に残り、集落の共同作業である「結っこ」のまだ色濃く残る集落に多く居たのである。農作業・家普請等常に顔を会わせた。その為、年の差もあまり違わない仲間の気持ちはお互い判りあえており、時々その日の仕事の終り具合により、誰かの家に集まりタクキリ(無駄話)を楽しんだ。しかしお互いどの家もほとんど手作業の時代、朝早くから夜遅くまで働き詰めの中、家族には多分に迷惑この上ないことであったと思われ、気掛ねなく集まれる場所があればと思ったものだ。そんな昭和四十六年、戦争で裸山となった山林の復旧の為、岩手県林業公社が発足、我が地区にも計画が示され、目の前の史跡であり蝦夷伝説の残る山が該当と知らされる。さらに旧街道からの神社へ登り口にある「お香の木(桂)」も伐採されると聞くに及んで、驚きました。この古木は我が集落の春耕を告げる樹として古来より伝えられる大切な樹であったのです。急遽仲間と相談、お香の木伐採中止と史跡でもある神社を含む集落に面する山の一部分を桜を植樹した公園にしたい為借地したい旨、集落の連名の嘆願書を県と公社に提出しました。幸いにも伐採中止と借地が認められ、その中で解ったことは親世代の人達も以前地主にお願いしたが叶わなかったということです。そのため集落一同大喜びで山の地拵え、桜の植樹を計画し、さらに村内では茅葺き家屋の解体とそれに伴う家屋の新築が散見されている頃であったことから、この解体された古材を貰い受け、やがては姿を消すであろう曲屋を借地に建て地域の集会所として活用、併せて茅葺き家屋の解体と同時に焼却される農具・民具も残そうと考えたところです。

同世代の多くのものが都市部や地方へ仕事や収入を求め郷里を後にしている中、留守を守る立場とも言える私共の役目を考えてみると、これまでいく世代にもわたり地域的に恵まれない土地にあって気象条件が悪く天災・自然災害に伴う凶作やケガズ(飢饉)、疾病、戦禍に耐えながら命を繋いで現在の私共が存在していることに思いが至りました。その間の先人の苦労や悩みの体験を通して伝えられてきた工夫や技術・自然界から知り得た知恵や技、それらに伴う祈りや重い、風俗や習慣などをあまりにも知らなさすぎ、あるいは忘れている現実に対峙した時、今私共に出来ることは、先人たちの知恵と技と努力の証をひとつでも多く残し語り継いでゆくことが責務であるとの考えに至ったところです。その為核家族化は控え三世代同居が必要不可欠等とも考えたところです。

先の古材を貰い受けて少しずつ進めていった曲家についてですが、お互いの仕事の合間をみながら資材を集め建設し、六年程を経て完成しました。思いを実現出来たことも喜びでしたが、協力しあうことの大切さが大事と「結っこ」精神に改めて感動を覚えた次第です。ともすれば世の中から捨てられ忘れ去られそうな先人の技と汗の証が、奇しくもこの度これらの農具類に関心を寄せて下さいました(一社)fumotoの皆様のご支援により、盛岡や東京などの他所で披露いたゞき感謝に耐えず、改めて収集・保存・伝承の大切さを忘れず公開にむけ務めます。

東大野一男 ひがしおおのいちお
昭和17年生まれ。洋野町東大野地区出身(旧大野村)。
大野村誌編纂委員。
青年時代より民具の収集と保存、地域の人々への聞き取り調査と記録に尽力し、現在でも農業の傍ら続けている。
(2023年4月 執筆)