ひろのの栞

【寄稿】過去は未来への道しるべ

ひろのの栞から発行した「ゆい」と「つぎ」、そして、2冊のコンセプトを引き継ぎながら開催した企画展「風土-あしもとの風景をつなぐ展-」。この二つの企画展の監修協力をしてくださった一人である酒井さん。かつて洋野町が種市町だった時代から民俗資料館の職員として熱心に活動し、定年退職後も町史編纂委員として地域史の研究や継承に対して、熱心に取り組み続けています。今回の記事では、過去は未来への道しるべであると信じながらこの町の歴史を記録し、民俗資料の収集に励まれてきた酒井さんから、ご寄稿いただきました。

人間の住むところに歴史あり。
戊辰戦争により盛岡藩は、会津藩などとともに敗北し、朝敵の汚名を着せられ、西洋化の恩恵を受けることも少なく、「日本のチベット」と、チベットの人々にはたいへん失礼だが、この地方の人々は蔑視され軽侮されてきた。その上「小鳥の餌の稗を人が喰っている」と、それ故に「九戸にはたいした歴史がない」と言った。「たいした歴史」とは、どのような歴史なのだろうか。たしかに多くの人々を殺戮させ天下をとった人はいないし、摩天楼のようなものもない。それでは、日本のチベットと称した人、思っていた人達が住んでいた所は、ほんとうにユートピア・理想郷だったのだろうか。

国富みて礼節わする日の本は
いずこに行かん尻きれ蜻蛉

私達の住むこの地は、ヤマセ吹き荒ぶ北のはずれにあることから、中央と称される地に住む人達から見れば、今でも東京電力の福島原子力発電所問題に代表されるように、「白河以北百文」と称された地方である。その北の片隅の僻すうに位置するこの九戸。まさに人と会うことが少ない大地。「九戸にはたいした歴史がない」との、不可思議な認識となっているのだろう。

さて、私たちが住む日本列島は、太古から四季おりおりの変化に富み、深い独特の趣きがあり、人々を楽しませ喜ばせながらも、時には悲しみももたらしてきた、美し国であった。そして、この私たちが住む北の大地。九戸の洋野にも長い冬から春がきて、短い夏に実りの秋が、毎年確実に巡り来る。このヤマセ荒び峻烈にして厳しい大地に住みついた祖先は、試行錯誤しつつ、おおらかでしぶとく生き、この地に適応した民俗や精神などを逞しくもゆったりと培い、確実に伝えてきました。

ところが、日本は戦国時代などにおける戦闘に明け暮れた歴史から、江戸時代には一揆など国内での争闘はあったが、対外戦争はしなかったが、明治維新後日本は、十年に一回対外戦争を起し、多くの人々に迷惑をかけ苦しめ、昭和二十年に破局をむかえた。このように日本は、「産めよ殖せ」の時代から「小子高令化」と激しい社会変化によって、時代は「さむらいジャパン」「なでしこジャパン」なっているように、いにしえの生活に溶けこみ織りこまれていたものが、今ではなぜかないがしろにされ、これまで人々に共有されてきた伝統的なものが、いつの間にかどこかに行ってしまったようである。

それぞれの時代と地域に必要があって生まれた物。使いこなされてピカピカに光る農具・漁具や生活具。今は錆てしまっているがイワシを焼くために使ったアブロゴなどの鉄製品。虫に喰われた古文書。セピア色した稗しまの立つ風景やワカメ・コンブを干す白黒の写真。このように消えゆく運命にあったモノ。形や方法を変えながらも脈々と続いている生業。厳しい自然環境と向き合いながらも、ハレの日を楽しみに暮らす人々。一度見過ごしてしまえば二度と日の目を見ることのないような古びた写真や道具こそ、未来に生きる人々には必要なのかもしれません。

そして、これらのモノは必要あって生まれ、この土地で使われてきたのであり、これらのものを使っていた人達の鼓動を今に蘇らせることによって、現代人の凍てつき殺伐とした心を溶かし、未来への道しるべとして重要なのかもしれません。もともと人間の歴史とは、そこに人間が住み、一歩一歩地道に苦楽をともに生活してきた時から、連綿と現在まで続き、未来の何かに向っているのであって、今一度立ちどまって、我われの地域の風土を形づくってきたものを見つめてみませんか。
未来は過去からの蓄積により成り立っているのであって、そこから何を見い出し、未来に役立てるかは、各人の過去を見つめる姿勢によるのかもしれませんが。

 

炙りごに鰯焼きつつ稗飯(へえめす)に
干し菜汁(ずる)かける九戸の昭和

酒井久男 さかいひさお
昭和23年生まれ。洋野町鹿糠地区出身(旧種市町)。
長年、種市地区の郷土史研究に尽力。
種市歴史民俗の会会長、本展監修協力、種市町史編纂委員。
趣味は短歌。大会への出品や、ローカル誌、広報ひろのなどにてユーモアに富んだ一句を発表し続けている。