ひろのの栞

「宝の海」へ

ウニといえば北海道のイメージが強いですが、実は岩手県は北海道に続き全国第2位のウニの水揚げがあります。その岩手県の中でも一番の生産量を誇る洋野町は、いわば本州一のウニの産地ですが、生産量だけではなく、甘みが強く身入りの良いことが特徴です。美味しいウニが育つ理由、そこには「増殖溝(ぞうしょくこう)」というこの町独自の漁業形態がありました。

 

今回お話を伺ったのは馬場等さん。種市南漁業協同組合(以下、漁協)に30年以上勤めています。遠洋漁業の漁師だったお父さんと年に1度しか会えず、寂しい思いをした経験から、毎日家に帰れる、地元で働ける仕事を選びました。就業当初からウニを収穫する現場仕事の手伝いをしたり、宿戸ウニ直売会の初回開催から運営・統括する立場を担っています。そんな馬場さんに、洋野町のウニ漁の歴史や歩んできた道、今後の活動をお話ししてもらいます。

 

先人たちの知恵が詰まった「増殖溝」

青森県南東部から岩手県沿岸を経て宮城県東部までの三陸海岸は、「世界三大漁場」と呼ばれるほど漁業が盛んな地域です。しかし洋野町が持つ海岸は、遠浅のため干潮時には海水が干上がってしまい、ウニやアワビのエサになる海藻類が枯れてしまうという現象が起こり、漁業には適さない海岸と言われていました。こうした不利な環境下にも関わらず、ウニの生産量が岩手県内ナンバーワンとなれたのは、「増殖溝」という洋野町の海岸の特性を上手に生かした方法によるものでした。「増殖溝」とはどういったもので、どのような経緯で出来たのでしょうか。

馬場さん:「漁協の当時の組合長さんが、枯れてしまって製品にならない昆布やわかめをどうにか出来ないかなという思いで毎日浜を見ていたら、天然の溝、というか窪みに干潮時でも絶えず水が張っている事を発見したそうです。水がある所には海藻が枯れずに残り、海藻が残っている所には、ウニとかアワビが生息しているという事に着目したのが始まりでした」

増殖溝とは、海水とウニのエサとなる海藻類が安定的に流れ込みやすくなるよう人工的に海岸の岩盤に掘った溝のことです。これにより、干潮になっても海藻類の成長が保たれるので、ウニは栄養をつけることができます。
今では高い評価を受けて、他県から視察が来るほどになった増殖溝ですが、取り組み初めた当初は、組合員の方々からの反対もあったようです。

馬場さん:「全国でも初めての試みでしたし、増殖溝を造るために水陸両用ブルドーザーを使って掘り起こす必要があったので、当時の組合員からは浜を壊すんじゃないかという懸念もあって、かなり反対されたようです。ですが、当時の組合長さんは、その反対に負けない強い意気込みで、増殖溝を造り進めていきました。とはいえ単に意気込みだけではなく、天然の溝を見つけてから3年間調査研究をして、上手くいくという自信があったからだと思います。結果的に水揚げ量が上がり、身入りの良いウニが採れるようになりました」

 

“宝の海” を後世にも

「ひと手間ふた手間を掛けているから、洋野町のウニは美味しいんです」と語る馬場さん。増殖溝は地形を上手く利用して造られたものですが、溝を掘れば、勝手に美味しいウニが育ってくれる訳ではありません。しかも、沢山のウニを安定して育てるためには、それなりの労力が掛かっています。

馬場さん:「ウニの育て方は、まず稚ウニ(小さいウニ)を沖合へ放流します。沖合で3年ぐらい育てて、大きくなったウニを増殖溝へ運ぶ『移殖』という作業を行います。昆布をたくさん食べたウニは、美味しいウニに育つと言われていますが、増殖溝にたくさん入り込む昆布を食べて育つから、洋野町のウニは甘みが強くて、苦味が少ない美味しいウニになるという訳です。
そして現在では、畑と同じで、種を撒いてそれを育てて収穫する “作り育てる漁業”(栽培漁業) が基本スタイルになっています。採ったら入れる、というサイクルを繰り返す事で安定して収穫ができるようになります」

実は増殖溝ができる以前、漁獲量が確保できないがゆえに収入が安定せず、まだまだ働き盛りの世代が仕事を求めて町を離れてしまったという過去がありました。手間を掛けて漁獲量を安定させるのは、この先も洋野町に住む若い人たちのためでもあると馬場さんはいいます。

馬場さん:「今の組合長さんは元々遠洋漁業をやっていたんですが、帰って来て洋野町で漁師を始めた時に沢山ウニが採れた経験をして、先人たちの浜作りに感動したそうです。そこで組合長さん自身も、若い人たちがいつ戻ってきても収入が得られる浜を作っておきたいと決意した、と聞いています。そのためにも、一生懸命浜を耕して “作り育てる漁業” が続けられるよう頑張っているって。
『今まで “使われなかった海” を “宝の海” に変えてくれた』と組合長さんも含めて、みんな本当に先人たちに感謝しています」

 

東日本大震災の影響

そんな折、2011年に東日本大震災が起こります。津波はここ洋野町の漁業にも影響を及ぼしました。

馬場さん:「震災直後は、増殖溝の溝がどこにあるのかも分かりませんでした。その年は、ウニも1割程度しか水揚げできなかったです。津波で水が引いてしまい、水もない状態で『ゼロからのスタート』って言いますけど……片付けから始まるという、マイナスからのスタートでしたよ。浜にも色んなゴミが寄ってきて、とにかく毎日組合員たちで掃除をしてゴミを拾うんですけど、次の日にはまたゴミが寄ってくるんです」

馬場さんは当時の悲惨な状況を思い起こしながら話してくれました。ただ不幸中の幸いで、洋野町は人的被害がゼロであったため、復旧するのが他の地域に比べて早かったといいます。その年の7月には販売再開にまで至ったそうです。

馬場さん:「今の町長さんが『洋野町から元気を発信しよう』と言ってくれて、町の協力を得て会場を整備しました。販売は他所の漁協さんにも手伝ってもらい、 “震災に耐えたウニ” ということで、漁獲量が少なかったので購入数を制限しながら、震災が起きた年の7月にウニまつりを再開しましたね」

その “ウニまつりat宿戸” は、震災の状況を報道するために毎日のように来ていたテレビ局が話題に取り上げた事もあり、多くの人で賑わったそうです。

 

今後の種市南漁協と馬場さんの活動

震災から時間が経過したと思いきや今度はコロナ禍へ。新型コロナウイルス感染防止のために飲食店が営業を止めたり、漁の回数を制限されて漁獲量自体が減り、売れ行きが悪くなるといったコロナの影響を多大に受けた洋野町の漁業。状況の改善が見えづらい中ではあるものの、馬場さんは今後、種市南漁協で、洋野町で何をしていきたいと考えているのでしょうか。

馬場さん:「これからは、世の中の生活スタイルの変化に合わせた出荷の仕方を考えていかなくちゃならないと思っています 。ネット販売とか、そういうのも活用していけたらいいなって思います」

とはいえ洋野町のウニに自信がある馬場さん。できれば現地に来て、その場で食べて欲しいというのが、馬場さんの一番の想いです。
また、 “現地で食べる事・買う事” には、採れたての美味しいウニが食べられるというだけでなく、お客さん側と馬場さんや漁師さんたちなど販売する側の双方にとって、メリットがあるといいます。

左:馬場 等さん  右:現種市南漁協組合長 吹切 信夫さん

馬場さん:「漁師さんたちが直接売ることで、購入者の声が直接聞けるし、また消費者は採ってる人たちの顔が見えるし、お互いに良いんじゃないかなっていう気がしますよね。
そして、やっぱり生で食べてもらいたい。漁獲量だけじゃなく品質も洋野町は別格だと思いますよ。私が言うのもなんですけど。
東京から3時に来て、友人たちの分も買うために4時から並ぶという事を10年続けている人や、ここの直売会で買ったウニを知人から貰って感激した人が、わざわざ三重からキャンピングカーで来た事もあります。ある人は『ここのウニを食べたら、他所のウニは食べられない』って言っていますね」

嬉しそうに馬場さんは話します。他の地域の人が実際に食べて「美味しい」という。その生の声を直接聞ける事は、絶対的な自信があっても嬉しいものであり、漁師さんたちのモチベーションにもなっているようです。
洋野町のウニは、先人たちの想いを背負った漁師さんたちによって、今年も美味しく育てられている事でしょう。ぜひ美味しい採れたてのウニを食べに、そして馬場さんや漁師さんたちの顔を見に、夏の洋野町を訪れてみませんか。

 

馬場 等(ばば ひとし)
洋野町宿戸地区出身。
1987年(昭和62年)宿戸漁業協同組合(現種市南漁業協同組合)に入組。
現在は種市南漁業協同組合の総務課長を務める。
バイクが好きで、今夏は十和田へのツーリングを計画中。

洋野町のウニを【ふるさと納税】からもお選びいただけます。
洋野町ふるさと納税HP:https://www.furusato-tax.jp/city/info/03507

 

(2021/04/27取材 大原圭太郎・橋本緑)