ひろのの栞

酪農家との橋渡しとして共に歩む

久慈地域(久慈市・洋野町・野田村・普代村)で唯一の牛乳・乳製品の加工場である、おおのミルク工房。地元という強みを生かし、美味しいままの牛乳を食卓へ届けています。酪農家の「ゆめ」を込めたという牛乳や乳製品。そのこだわりに迫りました。

 

洋野町が属する久慈地域には、現在約50件の酪農家があります。その酪農家さんが育てた牛の生乳を受け入れ、地元で牛乳・乳製品に加工しているのが「株式会社おおのミルク工房」です。生産から販売におけるすべての過程に、現役の酪農家さんが携わっています。創業時からの会社を知る専務取締役の浅水巧美さんに、美味しさの秘密や会社設立時のストーリー、今後の展望に至るまでお話を伺いました。

 

ゆめ牛乳の美味しさの秘密

洋野町や久慈市の小学校給食でもおなじみの「おおのミルク村 ゆめ牛乳」は、牛乳本来の美味しさにこだわったほんのり甘さを感じるテイスト。お菓子屋さんや喫茶店にもファンが多く、「ゆめ牛乳以外の牛乳は飲まない」という人もいるほど地元の方々に愛されています。乳加工品も絶品で、ヨーグルトはホテルや病院でも取り扱われ、東北の様々な道の駅などにソフトクリームの原料を卸しています。その美味しさの秘密とは一体何なのでしょうか。

浅水さん:「一番は生乳の品質が良いこと。酪農家さんたちの意識が高いので原料には手を掛け過ぎずに、素材の良さを生かしています」

地域の酪農家さんたちは一生懸命で酪農にプライドを持っている人が多く、品質の良い生乳の生産をお願いしている以外は、餌や乳牛の育成方法について指示をすることはないといいます。

浅水さん:「酪農家さんたちは寒い時期にしぼりたての生乳を牛舎で温めて飲みます。その『最高に美味しい牛乳の味に近づけたい』と、酪農家さんの手作業の殺菌方法を参考に、低い温度で長時間保持しながら殺菌するという方法を取り入れました。殺菌の時間や温度の実験試飲を経て “85℃で20分間” という今の製法に整いましたが、詳しくは……企業秘密です(笑)」

 

おおのミルク工房誕生の背景

高校卒業後は地元の企業に勤め、転職するも13年で退職し半年間は遊び歩いていたという浅水さん。その後就職したのが農業協同組合(以下、農協)でした。そこで酪農課に配属となり、酪農家さんとの交流がスタートします。

浅水さん:「酪農家さんは十人十色、それぞれにこだわりがある。牧草の種類、乾燥方法、刈り取りの時期に至るまで全く違う。中には牧草を自分で食べてみて判断するという人もいました。食べてみると『うちの “べこ(牛)” は苦い方が食いつきが良い』とかあるそうです(笑)」

浅水さんは時にお酒を交えながら酪農家さんとのコミュニケーションを深めていきました。そんな中、当時農協が経営していた久慈地域唯一の乳製品加工場が休止に。加工場がなくなってしまうと、この一帯で搾った生乳の全てを遠くの工場へ運ぶことになり、どんな製品になるかも分からなくなってしまう可能性がありました。

『酪農家で会社を作ろう』

酪農家さんや農協での話し合いの結果、民間会社を立ち上げ工場を引き継ごうということになります。

 

そうした経緯で2005年、酪農家さんなどに出資してもらい、100%民間出資の会社「おおのミルク工房」が立ち上がりました。浅水さんも出資をし、酪農家さんと歩んでいきたいという思いから農協に辞表を提出。2005年4月末で農協職員を退職し、おおのミルク工房で働くことになりました。

浅水さん:「当時、辞表を出した時はみんなにバカにされました。でも酪農家さんの集まりで『農協を辞めておおのミルク工房に入る!』と話した時、応援すると言ってくれる方もいて。それは嬉しかったです。不安はなかったですね、不思議と」

しかし、創業後すぐに軌道にのることはありませんでした。作った牛乳を買ってもらうため盛岡のスーパーで試飲イベントを行っても、なかなか手に取ってもらえなかったそうです。試飲の方法が悪かったのか、何が原因なのか。初めてのことで分からないことだらけでした。

浅水さん:「盛岡で試飲を行っていると『洋野町ってどこ?』『大野って名前しか知らない』と言われることもありました。悔しかったですね。試飲販売に行って3分の2を持って帰ることもありました。当時は休む間もなく、毎日のように残業をしていました」

それでも苦労したとは思っていないと微笑む浅水さん。当時は苦しさもあったかもしれないけど、今では笑い話だといいます。

 

キャッチコピー「酪農家の想いと夢をおいしさに」の意味

会社が立ち上がり、牛乳の名前を決める会議が行われました。牛乳の名前といえば地名を入れるのが一般的ですが、洋野町や大野だけだと久慈地域の集乳範囲をカバーできません。そこで久慈地域を「おおのミルク村」という架空の村として名付けることにしました。

浅水さん:「みんなが牛乳を飲んで『美味しい』と言ってくれることが、酪農家さんにとっては最大の喜びです。それこそが私たちの『ゆめ』であるということから『おおのミルク村 ゆめ牛乳』という名前になりました。創業当時からのこの理念を大切にし、現在は牛乳や乳製品に『酪農家の想いと夢をおいしさに』というキャッチコピーが付いています」

 

酪農の課題と今後の展望

日本の酪農全体としては後継者不足が叫ばれていますが、久慈地域には幸いにも酪農を志す人が多く、事業を繋いでいける酪農家さんが多いそうです。

浅水さん:「これから日本の酪農家さんが減っていけば、国産の牛乳の価値は高まると思います。しかし、牛乳は毎日飲んで欲しいものなのであまり価格を上げたくはありません。高価にすれば一部の人しか飲めなくなってしまいます。いつまでも手に取りやすい価格で販売するためには、もっと企業努力が必要だと思っています」

牛乳の美味しさへの追求と手に取りやすい価格。そして酪農家さんへの還元のバランスを浅水さんは考え続けています。

 

最後に、浅水さんの思い描く「おおのミルク村」の未来について伺いました。

現在久慈地域の酪農家さんが絞る生乳は1日約60トン。そのうちおおのミルク工房に来るのは6分の1の約10トンほどだそう。残りの約50トンは他地域に運ばれてしまいます。

浅水さん:「いずれは地域の生乳を全ておおのミルク村ブランドで請け負いたいですね。全国的に酪農家さんが減って国産牛乳の価値が上がったとき、酪農家さんにもっと還元できれば地域の酪農は元気になると思います。一次産業が元気になれば二次産業、三次産業と地域活性化に繋がります」

一次産業が魅力的で盛んな地域であって欲しいという浅水さん。二次産業、三次産業もまた一次産業を盛り上げる役割を担うことで、地域がより循環していくと考えています。良質な牛乳を美味しいまま消費者へ届ける役割を担い、酪農家との橋渡しをする。子どもたちが酪農に魅力を感じ後継者になっていってくれたらと、最後に浅水さんは話してくれました。

地域の酪農家と共に歩むおおのミルク工房の「ゆめ」は、地域の人々や日本の酪農家、日本の未来においても希望の光なのかもしれません。

 

浅水 巧美(あさみず たくみ)
1969年生まれ。岩手県久慈市出身。
高校卒業後、地元企業に就職。転職で別の企業に就職するも13年で退職して半年ほど遊び歩く。
2002年農業協同組合に入組、酪農家との繋がりを持つことに。
2005年「株式会社おおのミルク工房」立ち上げに伴い農協を退職。
最近のハマりごとはAmazonプライムで過去のTVドラマを見ること。

おおのミルク工房では大野高校のキャリア教育の一環で、高校生とのコラボ商品にも取り組んでいます。
商品には高校生の想いが詰まった感謝の手紙が添えられ、
2021年3月現在おおのミルク工房のHPにて販売中です。

HP:https://www.yumemilk.com/product

 

(2021/02/19 取材 藤織ジュン)