ひろのの栞

自分にしかつくれないものを

東北地方の太平洋側では、春から夏にかけて吹く冷たく湿ったやませの影響で農作物が育ちにくいため、大豆などの穀物が多く生産されています。 洋野町有家(うげ)にある舘豆富店(たてとうふてん)では、焼き豆腐をはじめこの地域に昔から伝わる堅豆腐などさまざまな豆腐をつくっています。代表の舘さんは一度洋野町を離れましたが、地元に戻って家業を継いでいます。今回は、豆腐づくりにかける想いと地域やお店の今後について伺いました。

故郷に戻って働く

舘豆富店は1962年に舘さんのお母さんが創業しました。もともとは親戚が豆腐屋をやっていましたが、事情があってやめることになったためお母さんが引き継いだそうです。一方、舘さんは高校を卒業後、電気やガス整備の専門学校を経て盛岡のガス会社に就職しました。高校では美術を専攻していましたが、美術で食べていける自信がなかったので大学進学は諦めて働くことに。その頃から豆腐づくりも大変になり、お母さんはお店をやめようかと考え始めます。それを聞いた舘さんは、店をやめてしまうのはもったいないと思い、23歳で地元に戻り店を手伝い始めました。

舘さん:「それまでは母が趣味的にやっていたので、帳簿などもつけていなかったんですよね。それで帳簿をつけてみたら年商300万円くらい、経費を引いたら150万円くらいで。ちょうど家庭を持った頃だったので途方に暮れましたね」

当時はお店の知名度もなかったためまずは販路を広げようと考え、八戸市や久慈市のスーパーに商品を置いてもらえるよう営業に行くことに。午前中は豆腐を作り、午後は商品を持ってスーパーへ営業に行く日々が始まりました。しかし、食品の営業は未経験の舘さん。事前に連絡をせずに行っても担当者に会うことはできません。それでも1ヶ月、毎日スーパーに通い続けます。

舘さん:「1ヶ月過ぎたある日、体調を崩して1日だけ営業を休んだことがあったんです。翌日いつものようにスーパーへ向かうと担当者に『昨日、来なかったね』と声をかけてもらったことがきっかけで話すことができて。そしてそのスーパーで商品を置いてもうこともできました。そのスーパーで売れ始めると他のスーパーからも声がかかって、今では70〜80店舗に置いてもらってます」

ちょうどスーパーが増え始め、他の店とは品揃えを変えたいという需要があったのでタイミングがよかった、と舘さんは言います。しかし、豆腐を小さく切り分けパックに入れてフィルムを貼る包装は、スーパーに並ぶ他の商品と見た目が変わらず、値段の勝負になることに違和感を覚えます。そこで、普段作っている1キロの大きい豆腐にフィルムをせず袋に入れることに。見た目が他の商品と異なり、かつ作ったその日しか食べられないことから、スーパーの担当者やお客さんからいい反応をもらえました。これが現在でも販売されている ”むかし豆腐” のはじまりです。

こだわらないと作れないもの

舘豆富店の商品は、今や洋野町の近隣地域をはじめ盛岡市まで流通しています。販路を広げ始めた頃はその分作る量も増やさないといけなかったため、全部を手作業で行うことが難しくなり機械を導入することになりました。しかし、全部を機械での作業にしてしまうと豆腐の味が変わってしまうため、どこまでを機械に任せてどこからを手作業にするかを考えたそうです。

舘さん:「ニガリを入れるのは人の手でやるのがよかったんです。大豆を水に浸していた時間や気温によって豆乳の状態は変わります。豆乳の見た目、におい、かきまぜたときの感触で変わってくる。全部感覚なんですけどね(笑)気温、湿度、ニガリの量を1年間記録したこともあったんですけど、日によって異なるので最適な量はわからなかったですね。大豆を水に浸す時間も、夏は前日の夕方5時からなので12時間ですが、寒い時期だとほぼ1日浸します」

使用している大豆は国産も輸入したものもあります。現在は購入した大豆で豆腐づくりをしていますが、昔は近所の人が自分の畑で取れた大豆を持参し、それを加工する賃加工という方法を用いていました。例えば、15キロの大豆を持ってきてもらったら10丁の豆腐にしてその人に渡し、残りの大豆は店で引き取って加工して売ることも。多い時は1シーズンで1トン近くの大豆が集まったそうです。

豆腐は大豆と水とニガリというシンプルな原料で作ることができますが、豆腐づくりは常に同じではありません。そのため、教えるのも簡単ではないと舘さんは言います。何年かに1度は豆腐屋を始めたい人が舘さんの元を訪れるそうです。

舘さん:「豆腐づくりの方法は1から10まで全部見せます。だけど必ず『同じ方法でやってみたけど上手くできない』と連絡がきます。水も違うし、かきまぜるスピードや力加減も違うから当たり前なんですよ。自分で方法を見つけていくしかないと思います。よくこだわりについて聞かれますが、むしろこだわりがないと豆腐は作れないんです」

いつも同じやり方ではいけないからこそ、飽き性な自分でも続けられていると舘さんは言います。材料は変えていませんが、昔からのお客さんにはお母さんの味とは違うと言われるそうです。使っているものは同じでも作る人によって違うものができる豆腐づくりを、舘さんは「絵を描くことと似ている」と表現していました。

舘豆富店の数ある商品の中でも多く購入されているのが焼き豆腐。このあたりの地域では年末年始やお祝い事の日に食べる ”煮しめ” に焼き豆腐を入れるそうです。また、昔に作られていた堅豆腐も復活させ販売しています。堅豆腐は水分が少ないため腐りにくく、冷蔵庫が普及していなかった時代によく作られていました。この地域でも親しまれていましたが、冷蔵技術が進化したことや水分の多い柔らかい豆腐の需要が高まったことでだんだんと作られなくなっていきました。

舘さん:「昔この地域でも作られていた堅豆腐が、北陸や九州で作り続けられていることを15年ほど前に知りました。そこで堅豆腐を作って販売したところ、予想以上に好評だったので定番の商品になりました」

堅豆腐を使用した煮物や田楽がこの地域では昔からよく食べられていて、地域の食文化を支える存在でもあります。
この堅豆腐がきっかけで、2020年には宮城県の大学と旧南部藩と呼ばれている岩手県北部や青森県南部の豆腐店と飲食店、食品製造会社が参加し、堅豆腐の特徴や魅力を伝えてブランド化する “「南部の堅豆腐」ブランドプロジェクト” がスタートしました。コロナ禍だったこともあり、学生が直接現地を訪れることや対面での販売会は難しかったものの、堅豆腐を使用したお惣菜やレシピブックの開発ができたそうです。それまではそれぞれだった堅豆腐のロゴも学生が作成したものに統一するなど、新しいものがたくさん生まれる機会になりました。

舘さん:「学生の柔軟な発想で、それぞれの生産者のこだわりを尊重したものができ、新聞などにも取り上げてもらえて認知度も上がりました。あとは、他の豆腐店との横のつながりができたのが嬉しかったです」

開発した商品は今でも継続して販売しています。全国的に豆腐店は減少していて、食文化も衰退しつつあります。文化を維持するのは難しいことですが、なくなった文化を復活させるのはもっと難しいことだと舘さんは話します。

帰ってきたくなるような町に

舘さんは地元である洋野町を出たかったわけではありませんでしたが、地元に仕事がないことを課題に感じていました。創業当時は旧種市町に100軒近くの豆腐屋、舘豆富店の周辺地区だけでも70〜80軒の商店があったそうですが、舘さんが戻ってきたときには3分の1ほどに減っていました。現在では豆腐屋は2軒まで減ったそうです。普通の豆腐屋は日曜、大晦日も働き、新年も2日から始まるため休みが少ないです。朝も3時から昼ごろまで作業をします。

舘さん:「朝は早いし休みが少なくて大変そうだと思っていたのでもともと店を継ぐ予定はありませんでした。自分が働く条件として、日曜日は休む、新年は5日スタート、そしてお盆明けも2日間休むと決めました」

 

仕事後の午後の時間が空いていたことがきっかけで、13年ほど前から少年野球チームの監督もしている舘さん。野球は未経験でしたが、やっていくうちに好きになったと言います。子どもたちと関わるなかで気づくことや感じることがたくさんあります。

舘さん:「年々子どもの数も減っていて、勝ちにこだわるというよりそれぞれが楽しんで出来るようにと心がけています。最近の子どもは海であまり遊ばないみたいで、この間は海に連れて行ってみんなで遊んだんですよ」

舘さんが子どもの頃に好きだった地元ならではの遊びを今の子どもたちにも伝え、愛着を持ってもらいたいと考えています。

舘さん:「卒団する子どもたちには『自分は洋野町に残るしかない。今は町がなくならないように細い糸を切れないようになんとか繋いでいる。大学に行って知識を身につけて、このチームの中で1人でもいいから町に帰ってきてほしい』と必ず言っています」

最近では地方でもいい教育が受けられるようになりました。しかし、地元に戻ってくる人がいないのが課題、戻ってきて新しいことを始めてほしいと舘さんは語ります。

舘さん:「子どもたちには大学に行けと言うものの、自分は大学に行ったことないから経験してみたいんです。将来は息子に店を継いでもらって、時間ができたら美術系のことを学べる大学に行きたいですね」

現在は代表を務める舘さんのもとで、息子さんも情報発信を中心に新しいかたちでお店に関わっています。

家業である豆腐店を継ぎ、地元で働くことを選んだ舘さん。同じ材料、同じ方法で作っても同じものはできない豆腐づくりと真摯に向き合っています。食をきっかけに地域や人をつなげ、地域の文化や生活を伝え続ける……そんな想いが帰ってきたくなるような地域をつくるのかもしれません。

 

舘 明(たて あきら)
1970年洋野町有家地区出身。
株式会社舘豆富店の代表取締役。
趣味はDIY。浜辺で拾った流木で家具を作ることも。

舘豆富店
岩手県九戸郡洋野町有家5-47
【公式HP】http://tatetofu.com/about/index.html
【インスタグラム】https://www.instagram.com/tatetofuten/

 

(2021/08/06 取材 千葉桃子 写真 大原圭太郎)