ひろのの栞

大野木工、はじまりの”はじまり”

40年以上の歴史をもち、小規模ながらも洋野町大野地区のなりわいの一つに代表されるようになった大野木工。今でこそ、保育給食器を中心に全国各地で使われている大野木工ですが、伝統工芸のように古くから土地に根付いているものづくりだった訳ではありません。その歴史が始まる以前の大野地区は農業に不向きな天候の影響で地場に産業が根付かず、働き盛りの多くの人々は関東や北海道への出稼ぎに頼るほかありませんでした。そんな中、大野という場所に何か仕事を生み出せないものかと奔走した一人の職人の熱意と行動力によって生まれたものが、今でいう大野木工なのです。今回は、その職人・三本木烈さんにお話を伺い、粉骨砕身の覚悟でひた走ってきた半生に焦点を当てながら、大野木工のはじまりの"はじまり"を紐解いて行きます。

 

千人もの村民が出稼ぎに

高原状でなだらかな地勢をもつ旧大野村は、酪農、畜産を主体とする農業が主産業でしたが、当時(1980年)の人口7,300人ほどのうち、1,000人を超える働き盛りの村民が大工や土工として出稼ぎに行かざるを得ない状況でした。村の中に雇用の場を確保することは、急務かつ深刻な課題だったのです。

昭和16年生まれの三本木さんは、中学校を卒業後に一年間の職業訓練校での研修を経て、東京の家具工場に6年間勤め、大野に戻る前の4年間は埼玉で建具職人として働きました。その後、昭和42年に大野に戻って建具屋を始めたのです1)。それから10年後の昭和52年、村の勧めで出稼ぎ対策事業を導入するため、三本木さんを代表に大野民芸家具組合を設立しました。組合では、県の工業試験場*1の指導を受けて土産品の生産を開始しましたが、販路の確保には苦労しました2)

昭和53年、思い余った三本木さんは、工業試験場から、地方の手仕事にも造詣の深い工業デザイナーであった東北工業大学(以下、東北工大)の秋岡芳夫教授を紹介してもらいます。意を決して、仙台で開催された木製品の展覧会会場を訪ね、ついに秋岡先生との出会いを果たしました。この出会いをきっかけに、「私もやりたいし、村にもこういうものを教えてほしい、ぜひ村に来てほしい」と、出稼ぎ対策となるような商品開発の指導のお願いを何度も何度も呼びかけたそうです3)。三本木さんの必死の訴えは届き、その翌年、秋岡先生による大野村訪問が実現しました。

河北新報 昭和55年9月10日付、河北新報社提供、掲載承認令和3年10月16日

 

大野木工の原点

出稼ぎの解消に切実な思いを抱き、秋岡先生を呼び込もうと熱心に活動していたのは、当初は三本木さん一人だったと言います。

三本木さん:「最初の頃は、本当に私一人だったんですよ。秋岡先生を呼ぶ日には、交通費から何から出したりしてねえ。当時は大変だった。でも、『大野村には、大工がいて資源もあって、ここはものづくりの可能性がある』っていうことを言ってもらって。先生のことを村長たちに紹介して、大野のものづくりはそれから始まったんですよ」

その声色には、当時の強い覚悟が滲んでいました。

工芸の歴史がない土地柄も相まって、当初の村民の反応は今ひとつでしたが、商工会や東北工大の先生方を筆頭に、全国各地で活躍していた各分野の一流の人らが手を貸してくれることに。ついに、昭和55年には「東北に冬の大学を!」「冬のデザインと冬の研究で豊かな暮らしを!」をスローガンに「大野村春のキャンパス’80」が開催され、結果的に1,500人もの村の人々が参加しました4)。キャンパスでは、村の素材を生かした木工、牛乳加工をテーマとする公開講座やシンポジウムをはじめ、ろくろ実演、映画などのプログラムが行われ、大変盛況だったそうです。というのも、酪農にしても林業にしても一次産品を叩き売るような値段で村の外に出してしまう現状を変え、それらの素材に加工や工夫を施し付加価値を生み出して、とりわけ農閑期である冬季にできる村での裏作(副業のようなもの)をみんなで考えていこうというのが、キャンパス開催の趣旨のひとつだったからです。当時の広報には、このような記述があります。

「酪農も農業も新しい展開をしてほしい。ともかく、大野の人たちが、それぞれの職種に従って何か一つ工夫してみようや。一人ずつが何か新しい工夫をすることによって、村全体を活性化しようというのが一人一芸の意図なんです。」3)

春のキャンパス開催から2ヶ月後には、木地師の時松辰夫先生が大野村での指導を本格的に開始します。時松先生は、生涯にわたって、大野村での木工指導のとりわけ技術面において大きく貢献した人物です。三本木さんは当時をこう振り返ります。

三本木さん:「『いやあ、三本木さん。九州に時松さんっていうろくろができる人がいるんだけど、俺が呼んであげるからやってみないか?』って秋岡先生に言われて。『いやあ、困ったなあ』と思ったよね。どうやって給料払うか……って。こっちにもお金はないわけですよ。でも、秋岡さんが大学の方から時松さんに給料を出してくれてね。時松さんもまた立派な人でさぁ。私は本当に助けられた」

これが、大野木工のはじまりの”はじまり”です。春のキャンパスでは、「大野の木で、大野の人たちがつくった食器で、大野の子どもたちが給食をとれないか!」という東京食糧学院教授・森雅央先生の提案があり、昭和57年の10月、大野第一中学校でその提案は実現しました。その導入は、全国的に報道され大きな反響を呼びます3)

奔走と成功

三本木さんは、10人弱の職人を抱える組合の代表でもあったため、自分や家族だけではなく、職人全員を食べさせて行くのに十分な稼ぎが必要でした。熱心に指導した職人たちが三本木さんの工場(こうば)*2から巣立ち、自分で独立して生計を立てていくのもまた、大変なことだったと言います。そこで、なんとか職人たちの給料を稼ぐため、大野に木工を定着させるためにと、盛岡や東京の百貨店にも積極的に大野の器を売り込むことにします。

三本木さん:「ものを売るというのはなかなか大変なもんで。作るだけじゃなくて、やっぱりものとお金との交換にならないことにはね。そのうちに、都内の西武池袋本店で、『大野村クラフト展』と銘打って単独の催事ができるようになって。しかも、盛岡にいたNHKの記者が、朝と昼に東京で流してくれたんですよ。それ以来あんまり売れるもんだから、池袋以外にも回ったんですよ、大阪の方までね」

当時は、クラフトという言葉すら浸透していない時代でしたが、「東京で10年間勤めた経験があったからなんとかかんとかできた」のだと三本木さんは話します。昭和57年に初開催した西武池袋本店での催事を成功させて以降、年に2回の大野村単独での出展をしばらくの間続けました。当時の百貨店担当者とのこぼれ話にはこんな景気の良いエピソードも。

三本木さん:「確か昭和60年くらいだったような……。(あまり売れるものだから、)西武さんがびっくりしてね。販売部長が毎晩私のことを飲み屋さ連れていくわけですよ。『もう勘弁してくださいよ。昨夜は寝てないす。もう疲れてますから』って言っても、『いやいやいやいやだめだ!美味しいもの食べなきゃだめだ!』って言ってさあ(笑)」

嬉しいやら困るやら、三本木さんは、当時の様子を懐かしむように笑いながら教えてくれました。

 

今なお変わらない気骨、受け継がれる技術

昭和52年に大野民芸家具組合を設立して以来、自身が抱える職人のために、大野のためにと東奔西走してきた三本木さん。三本木さんの工場(こうば)では、今でも日々研究を重ねながら木の器やカトラリーの制作が続けられ、10年ほど前からは山葡萄の樹皮を使った鞄の制作も始めました。

生業(なりわい)としてのものづくりはすっかり軌道に乗ったようにも思えますが、百貨店における催事の減少や、委託販売手数料の増額など、時流に苦しめられているのも事実です。それでも、ものづくりにかける思いは昔と変わりません。

三本木さん:「やっぱりなんとしてでも、人が出来ないことやしないことを自分で工夫してやらないといけない。ちょうど今作っているこの器もそうで、自然の力をうまく利用してこそできる。これは一点ものなんだけど、乾ききってない木を使うから難しいし、これを作れる人はなかなかいないんじゃないかなあ。だからねえ、何を考えても、最後は自分の中にやってみる勇気がないとね。『なあに!オラがやるか!』ってくらいの意気込みで、最終的には自分がやるんだからね」

かつては、皆が「何もない」と口を揃えたと言う大野という場所。今では町の子どもたちも「大野といえば大野木工」と話してくれるほどになりました。「なあに!オラがやるか!」という三本木さんの勇気と気概にはじまった大野のものづくりは、現在まで続く「大野木工」としてしっかりと根を張っています。令和という新しい時代を迎えた今でも、日本各地に大野木工の愛用者がいることは、三本木さんのがむしゃらな心意気が身を結んだ何よりの証です。

三本木さんに始まり、秋岡先生、時松先生らが築いてくれた礎石は、新しい世代に託されようとしています。木が芽を出してから成長し、器になるまでには、数十年もの月日がかかると言われています。今私たちが手にすることのできる器は、ひょっとしたら、大野木工がこの地に芽吹き始めたちょうどあの頃に芽を出した木からかもしれません。工芸は、作り手と使い手がいてこそ成り立つものです。どうでしょう、みなさんも大野の木の器に触れてみませんか。

 

三本木烈(さんぼんぎ いさお)
昭和16年旧大野村向田地区生まれ。
岩手県立二戸高等技術専門学校で木材工芸の基礎を学んだ後、上京し家具制作会社に勤務。帰郷後の昭和52年に大野民芸家具組合を設立し現在まで代表。平成9年に岩手県卓越技能者、平成13年卓越技能者厚生労働大臣表彰受賞など岩手を中心に工芸会を牽引してきた。

三本木工芸
〒028-8801
岩手県九戸郡洋野町大野上館56-15-6
TEL 0194-77-2506,  FAX 0194-77-4071
ウェブサイト https://www.sanbongi.com
営業時間10-16時(不定休)
展示販売室がございます。ご来店を希望される方は、上記電話番号まで事前にご連絡ください。

引用
1)「広報おおの」 昭和56年2月,  p7
2)「広報おおの」 平成5年1月, p4-5
3)「広報おおの」 昭和61年2月, p2-4
4)「大野村の裏作工芸」p4-5

注釈
*1 旧工業試験場、現在は岩手県工業技術センターが正式名称。
*2 工場(こうば):三本木氏が、自身の作業場のことを「こうば」とよく話していたという佐々木貴光氏(大野木工生産グループ)からの証言を引用したもの。

参考
「広報ひろの」2010.12
「秋岡芳夫展 モノへの思想と関係のデザイン」目黒区美術館, 2011.12

協力
佐々木貴光氏/大野木工生産グループ
上野珠実氏/洋野町地域おこし協力隊

資料提供
洋野町企画課
洋野町立大野図書館
河北新報社

写真提供
髙坂真氏/のへの

 

 

(2021/6/18 取材 大原圭太郎・髙坂真、記事 小向光)