ひろのの栞

地域やチャレンジする人の土台をつくる(前編)

民間で地域おこし協力隊を受け入れる団体「fumoto」を立ち上げた大原さん。移住のきっかけから立ち上げ時の思いまでを、当時の苦労を知り支えとなった役場担当の高橋係長との対談形式で伺っていきます。

 

地方で働こうと思ったきっかけ

2016年に洋野町に移住し、一般社団法人fumotoの代表を務める大原圭太郎さんは、宮城県仙台市の出身。2011年の東日本大震災当時、仙台の大手アパレル店で働いていました。甚大な被害の中、気仙沼にあった祖父の家も流され、自分の人生を見つめ直します。

「自分が本当にやりたいことをして生きていきたい」と思うようになった大原さん。震災の1年後に仕事を辞め、上京。元々洋服に興味があったため、セレクトショップで働きながら、友人と洋服を作りイベントに出店していました。

大原さん:「ただ、色々とチャレンジした結果、洋服の世界を極めることに限界を感じて。自分はそこまでやりたいのかって」

仙台に住んでいた時に感じていた、東京で流行ったものが流れてくる感覚。もっと仙台から新しいものが生まれれば、という気持ちを持っていたことを思い出したといいます。洋服はあくまでも手段でしかなく、自分がやりたかったのは地域を盛り上げることだったと気付きます。
東京を離れることに葛藤はあったものの、これから地方が面白くなりそうな予感もあったそう。

大原さん:「震災後に地方を盛り上げようという動きは感じていました。初めは地元である仙台の付近や気仙沼で仕事を探していたんですが、思うようなものが見つからなくて。そんな時、奥さんの実家がある洋野町で、地域おこし協力隊(以下、協力隊)の募集が始まるという情報を得て、悩んだあげく、とりあえず応募してみることにしたんです」

洋野町には何度か来たことがあり、気仙沼での記憶と重なる部分を感じていたといいます。

大原さん:「どこか懐かしいような、のんびりとした町だなと。その空気感に、ここで暮らすことを決めました」

その後、洋野町の協力隊第一号となった大原さん。任期中は観光推進に携わり、洋野町の情報発信やイベント、トライアルツアーの企画運営等、活動は多岐に渡りました。そんな中、次第に任期後のことを考え始めます。

協力隊時代のトライアルツアーの様子(大原さん提供)

 

民間で協力隊のサポートを

大原さん:「協力隊は任期が最長3年と決まっています。任期後を見据えトライアルツアーをしたのですが、正直なところ観光で食べていくのは大変だと感じました。一人ではなくチームでできたり、担い手というか、地域で活動したい人をもっと増やせたらいいなと」

調べていくうちに、遠野市の「Next Commons Lab」という、民間で協力隊を受け入れている仕組みを知ります。担い手不足で地域経済が衰退していく現状と、自身が感じていた任期後を自分で見出していかなければならない難しさ。これらを解決できる仕組みであり、これを洋野町でもやりたいと思った大原さん。早速視察に行き、協力隊の担当責任者である高橋係長に相談しました。

高橋係長:「その当時は、役場以外で協力隊を雇えるのか?というところからだったね。大原さんから事例があると聞いて『それは面白い、ぜひもっと勉強して欲しい』と伝えました」

大原さん:「かなり前向きに捉えてくれましたよね」

高橋係長:「役場としては手詰まり感が出ていた時だったからね。協力隊に対して、役場の人手不足を補う使い方になってきていないかなと。私は、それは違うんじゃないかなって感じていて」

部下からの信頼も厚い、高橋係長。

 

当時協力隊は5人ほどいたものの、活動に悩む人も出てきていました。その裏には、やりたいことをやらせてあげれていない現状があったのではないかと高橋係長はいいます。

高橋係長:「協力隊をきちんとサポートができていないというか、3年後に対する責任が持てていない感じがしたんだよね。このままでいいのかなって。大原さんの話を聞いて、良い方向に向かえばという期待感はありました」

大原さんはその後も事例を調べ、遠野市の他に奥州市、宮城県丸森町、北海道浦幌町を視察します。
いくつか視察するうちにそれぞれの良いところを合わせた自分の方向性が見えてきましたが、実現が可能なのか心配な部分はあったそうです。

大原さん:「不安もありましたが、最初の遠野市の話を聞いた時に『これでいくしかない。自分がやりたいのはこれだ』という気持ちは持ち始めていました」

 

いよいよ「一般社団法人fumoto」の誕生に向けて動き出した大原さん。
後編では “fumoto” の名前に込められた意味や、今後お二人が思い描く未来のカタチもお届けしていきます。

 

>>後編へつづく