ひろのの栞

その火を絶やさずに

その質、生産量ともに国内屈指を誇る岩手木炭。不純物が少ないため、煙や炎、臭いが少ないばかりでなく火持ちが良いのが特徴で、また、遠赤外線が多いことから食材が美味しく焼けると言われており、一流の飲食店でも使用されています。洋野町大野地区には、17基の窯を構え、岩手木炭の代表的な製炭場である北部産業(株)があります。この土地に製炭の歴史が根付いた理由には、かつて大野で盛んだったたたら製鉄と豊かな森林資源があげられます。時勢の影響を大きく受け、幾度の盛衰を繰り返しながらも、決してその火を絶やすことなく今日まで続いてきた大野の炭焼き。その歩みを辿り、日本一とも言われる現在の炭焼きの姿に焦点をあてます。

たたら製鉄と木炭業

藩政期の旧大野村は、和製の製鉄方法であるたたら製鉄で栄えた場所。大野村誌を読み進めると、大野鉄山*1から生産された鉄は、北は松前から南は江戸まで運ばれ、その名声が高かったことが窺えます。その製鉄業を下支えしていたのが、燃料となる木炭。当時の製鉄業や木炭業を記録した資料からも、労働環境は現在では想像しがたいほど劣悪なものだったと考えられています。

時は流れ、幕末には岩手県南・釜石に西洋式高炉が完成。明治に入り、西洋式高炉が台頭するようになったことから、たたら製鉄は明治末期より衰退の一途を辿り、大正に入るとほとんど消滅してしまいます。

たたら製鉄が消滅しゆく一方で、明治になると都市の一般家庭で木炭を使用するようになってきたため、今度は一般燃料としての木炭の需要が高まります。以降、東北本線が開通すると都市部への出荷が容易になりますが、当時の岩手木炭の品質は悪く、都市部から買い叩かれてしまうのが実情でした。そこで、品質向上、包装、企画、販売方法などの改良のために、明治末期に先進地の指導を受けたり、大正10年には大野をはじめとする県内32箇所に木炭検査所が置かれたりなど、この頃から岩手木炭としてのブランディングが少しずつ進んでいきます。

木炭検査所、苗代澤幸子氏所蔵

不安定だった木炭業

昭和5年には現在のJR八戸線(八戸駅-久慈駅)が全線開通し、この出来事が大野や近辺の木炭業の盛況に拍車をかけることになります。戦後は、梱包や荷積みの仕事なども増え、また、岩手木炭としての窯の構造や品質の統一を目指す動きも現れました。

その頃(昭和27年)に現社長・佐々木松一さんの父が創業したのが現在の北部産業(株)の前身である「ささき木材店」。創業当時は木炭仲買業を中心に行い、数年後には製材所の経営も始めます。その製材作業で出る端材の処理として炭を焼いていたことが、現在の北部産業(株)のルーツなのではないかと佐々木さんは語ります。しかし、創業から程なくして燃料革命に直面することになります。石油やガスの台頭により、一般家庭における燃料としての木炭の需要は落ち込みます。

佐々木さん:「結局燃料革命になって、全然商売にならなくなって、それで、どっちかといえばここの地区は出稼ぎが本当に盛んになっていったっていうのもあるんじゃないかな。盛んっていえば変な話だけど、でも、そう言う人が結構いたんだよね」

農業にも不向きな土地柄で、木炭業までもが低迷していく状況下では、多くの村民が出稼ぎに行くしか策がなかったのでしょう。ただ、ここで暗い状況を憂うばかりではなく、生産効率や労働環境の向上を図ったことが、今日までこの地に木炭業が根付く一つの理由と言えるのではないでしょうか。と言うのも、それまでの製炭と言えば、山中に簡単な家を作り、その中で寝泊まりをしながら働く。そして木材がなくなるとまた別の場所に移動するという心身ともに苦痛を伴う労働形態でした。昭和40年、北部産業(株)では「庭先製炭」と呼ばれる自宅の庭で大量に炭焼きをするための窯を3基構えます。大変な時代でしたが、当時の社長が他の産業とのつながりが深い人だったこともあり、相手の依頼に答え、炭と木酢液を混ぜた飼料も生産するなど、自社で可能な様々な手法をもって苦難の時代を乗り越えていきます。

炭焼きのための掘っ立て小屋, 昭和19(1944)年頃に久慈平岳付近で撮影, 洋野ヒストリアより

苦難を乗り越え返り咲き

平成4年には松一さんが父親の後を継いで、会社の指揮を取ることになります。燃料革命を乗り越えて以降も、木炭業が長期的に安定することは中々なく、価格の高下は悩みの種でした。

佐々木さん「価格の低迷がずっと続いて、物不足になったらバーンと上がって。震災前なんかも、(売れずに残っている炭で)倉庫がびっしりだったからね。値段の上がり方も半端じゃなく上がるんだよね。でもさ、使う人にとってはそういうのは困るじゃないですか。たとえば米がいきなり3割も4割も上がって、じゃあ米じゃないのを食うかってなる。最近は協会のほうで統制っていうか、最低ラインを決めてやっているから安定してますけどね」

それでも、職人たちは日々ひたむきに炭を焼き続けていたと言います。理不尽とも言える苦労はあまりに長かったかもしれませんが、県木炭品評会で北部産業(株)の職人(新田德男さん)が最高賞を受賞したり、そのあとを追うように後進の職人らが徐々に育っていったりと、明るい出来事も続くように。平成30年には、岩手木炭が「地理的表示(GI)保護制度(農林水産省)」に登録され、岩手木炭の名称及び品質保護が進みます。近年は、木炭の出荷先が多様化し、例えば、飲食業、ホームセンター、有畜農業などにも卸しているそうです。高い品質を保ったままで、価格や生産量も安定しつつあるのは、かねてより時代のうつろいに柔軟に対応し、日々、誠実な仕事を重ねてきた歩みの賜物です。

この地に根付いた歴史ある生業(なりわい)として、少しずつ形を変えながらも家業として、今日まで炭焼きを続けてこられたのには、ずっと昔から変わらない理念や信念があるのでしょうか。松一さんは、笑いながらこう答えます。

佐々木さん「別にないけどなあ(笑)そういうのは人さしゃべんなくても、嘘をつかないで正直にっていうのを続けてったらいいんじゃないかな。騙されることはあっても自分は騙さないように。それだけは心がけてやるようにしてるけどね」

大それた何かを掲げずとも、土に根ざした資源や周りにいる人たちを大切に生業(なりわい)を営み続ける。こうしていくことで継がれていく生業(なりわい)こそが、本当の意味での地場産業なのかもしれません。仕事や周囲の人々に対していつも真っ直ぐな佐々木社長、そして彼のもと、ひたむきに炭焼きに励む職人たちがいる限り、決してその火が絶えることはないでしょう。

参考
(1)「港ができる前の八木」, 洋野ヒストリア,http://www.historia-hirono.jp/hirono_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&list_id=11006194&data_id=5946
(2)「特集 日本一の炭の里」, 広報ひろの2020年8月号

注釈
*1 大野鉄山:大野をはじめ、久慈・軽米・種市・山形で操業した鉄山の総称と考えられている。(大野村誌編さん委員会,「大野村誌第一巻民俗編 ムラの生活、ムラの時間。」,「盛んだったたたら製鉄」,pp210)

佐々木松一(ささきしょういち)
昭和28年旧大野村西大野地区生まれ。
家業を継ぎ、平成14,5年頃に北部産業株式会社の代表取締役社長に就任。
愛馬の世話が大好き。仕事柄、トラックの長距離運転には慣れていて、定期的に訪れる北海道はもちろんのこと、広島までも行った経験がある。

北部産業株式会社
〒028-8802
岩手県九戸郡洋野町大野70-2
TEL 0194-77-2361
ウェブサイト https://www.hokubusangyou.com
個人のお客様から業務店、問屋様まで対応可能です。コンテナ輸送可能。
上記の電話番号またはウェブサイト内のお問合せフォームからお気軽にお問い合わせください。

(2021/10/25 取材 小向光 写真 大原圭太郎)